マンスリー・トピックス

共感資本主義に向けて
-経済学がたどってきた道

大阪大学社会ソリューションイニシアティブ長/経済学研究科教授
堂目卓生

2021年9月

私は、30年ほど、経済学の歴史、特に18世紀および19世紀のイギリスの経済学を研究してきました。産業革命をきっかけに近代化が進む中、当時の人びと、特に後に「経済学者」と呼ばれるようになる人びとが、社会課題をどのように受け止め、目指すべき社会をどのように思い描いたかに関心を持ってきました。

アダム・スミスが構想した社会

たとえば、18世紀のアダム・スミスは、個人の利己的な行動が市場を通じて社会の繁栄を促進することを認めましたが、それは共感にもとづいた道徳的抑制があってはじめて生じることだと考えました。共感とは「他人の感情を自分の心の中に写し取り、同じ感情を引き起こそうとする心の働き」のことです。

スミスは、フェアな競争、つまり独占、結託、偽装などによって、他の人の参加を意図的に妨げることのない競争によって、社会全体の富が増大し、その恩恵(具体的には雇用)が、競争に参加出来なかった人々にも降り注ぐ社会を構想しました(図1)。スミスの構想は、東インド会社やギルドなど、国王や議会から排他的特権を与えられた株式会社や組合が経済を独占する中で、斬新なものだったといえます。しかし、後世の歴史から見れば、スミスが残した課題もあります。それは、(1)競争に参加できない人びとを包摂することと、(2)国や民族、文化や宗教の違いを乗り越えて、道徳を共有することでした。

ジョン・スチュアート・ミルが構想した社会

スミスが残した課題は、19世紀の哲学者・経済学者、ジョン・スチュアート・ミルに引き継がれました。ミルの時代は、世界で初めての万国博覧会が開かれるなど産業革命の成果が本格的に現れる一方、ロンドンのスラム化が深刻になるなど、産業化の影も見え始めた頃でした。このような中で、ミルは、競争を真の意味でフェアにするために、競争に参加する機会がより多くの人に開かれるべきだと考えました。

ミルは、生まれや性別によって、幸福を追求する機会を限定するのは社会全体の幸福を最大化することにならないと考え、機会均等化を訴えました。例えば、教育を受ける機会は労働者階級を含めたすべての人に開かれるべきであり、政治に参加する機会も女性を含めてより多くの人に拡大されるべきだと主張しました。また、相続税を用いて同世代における経済的初期条件の格差を縮小しすることを提案しました。さらに、社会主義の時代に備えて、生産協同組合など、労働者が資本を所有し経営する実験を奨励しました。

ミルが目指したのは、均等な機会のもとですべての人が自由に活躍することによって、社会全体が物質的により豊かになり、最下層の人びとの分け前も増える社会、つまり成長と分配とが両立する社会でした(図2)。

アマルティア・センが構想した社会

1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド人の経済学者アマルティア・センは、スミスやミルの思想を受け継ぎつつ、「人間開発」という視点に立った社会を構想します。センによれば、人生はケイパビリティ、つまり出来ることの幅を拡げるために与えられた時間であり、個人はケイパビリティが最大になるように行動すべきです。

他方、社会は、個人、特に自然的・社会的要因によってケイパビリティが狭められている個人が自発的に行動できるよう、経済的便宜、政治的自由、社会的機会、透明性の保障、保護の保障を整備しなくてはなりません。重要なのは、経済的便宜、つまり物質的な豊かさは人間開発のための手段のひとつでしかないということです。

センは、ミルの機会均等をより積極的に推し進め、経済成長よりも分配にウェイトを移しました。女性や貧者、障がい者など、何らかの理由で開かれた機会を十分に利用できない立場にいる人びとに対して、そのことが経済成長につながらなかったとしても、阻害要因を取り除き、他の人と同様に能力の開発ができるように資源配分するという考え方です。経済成長を果たしてから、人間開発を進めるのではなく、最も不利な状況にある人びとの人間開発を優先的に推し進める社会をセンは構想しました(図3)。

逆転の発想: 「コロナ新時代」に目指すべき社会

それぞれの時代において、経済学者は、財とサービスを効率よく生産し、社会の構成員すべてに分配する持続可能な仕組みを考えてきました。発想の根底にはヒューマニティに溢れる眼差しがあります。しかし、それは財とサービスの生産を中心とした見方、それを基準に人間を「有能な人」(capable)と「弱者」(vulnerable)に分ける見方です(図4)。

2020年10月のマンスリー・トピックス「ポスト・コロナの時代に目指すべき社会とSSIの活動」で論じたように、コロナウィルス感染症を経験した私たちは、誰もが「弱者」あるいは「助けを必要とする人」になりうる時代にいることを知りました。そのような時代が続く中、私たちは従来とは異なる発想をする必要があります。

従来の経済学では、生産の視点から「有能な人」を真ん中に置いた社会を構想しましたが、今後は、「助けを必要とする人」を中心に置き、「助けることができる人」が周りを囲む社会を構想しなくてはなりません。ただし、誰が「助けを必要とする人」で誰が「助けることができる人」になるかは固定化されず、流動的です(図5)。

「助けることができる人」は「助けを必要とする人」に財やサービスを一方的に分け与えるのではなく、「助けを必要とする人」から命の儚さと勁(つよ)さ、尊さと繋がりを感受し、自分の中に潜む「助けを必要とする人」になることへの恐れを和らげることができるかもしれません。逆に、「助けを必要とする人」は「助けることができる人」から一方的に支援を受けるだけの存在ではなく、「助けを必要とする人」であるがゆえに与えることができるものを持つ存在だと言えます。

「助けを必要とする人」と「助けることができる人」との間に存在する共助関係に気づき、それを大切にする社会。さらには、共助を成り立たせるための財とサービスが、自由な企業、交換、消費等、個人の自発的な行動によって行きかう。これが「コロナ新時代」に目指すべき社会であり、私は、それを「共感資本主義社会」と呼んでいます。

共感資本主義社会をどのように実現するか。この課題については、企業者を中心とした集まりである「SSI車座の会」で探求しています。