マンスリー・トピックス

「歴史をつづる権利」のために

文学研究科准教授
安岡健一

2021年1月
学習権宣言と「歴史をつづる権利」

「歴史をつづる権利」と言われても、ピンとこないかもしれません。歴史を学ぶといえば学校の授業や、趣味の講座などで、すでに得られた知識を習得するイメージが根強いのではないでしょうか。そこでは、歴史は過ぎ去ったことであり、自分の外部にあるといったイメージでしょう。そんな歴史がなぜ、「つづるもの」で、おまけに権利という言葉までがついてくるのか、疑問に思うかもしれません。

冒頭に示したこの印象的な言葉は、1985年にユネスコの国際成人教育会議で採択された「学習権宣言」の中に含まれているものです。学習権宣言は、次のようにはじまります。


学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。

学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。(国民教育研究所訳)

読んだり書いたりすることと並べて、自分の世界を読み取ることと歴史をつづる権利(the right to read one’s own world and to write history)が、学習する権利の一つとして置かれています。問い、考え、創造することの意義は、今、どれほど強調してもしすぎではないでしょう。そもそもなぜ、このような宣言がなされたのかも興味深いですが、ここでは宣言成立の経緯にはふみこまず、歴史を自分が「つづるもの」として捉えるという発想が、現代における歴史研究の持つ可能性を捉えなおす手がかりにならないかを考えてみたいと思います。

歴史研究の可能性 

歴史をつづれない状態とはどんな状況かを想像してみることが手がかりになるかもしれません。自分がなぜ、どのようにして、「いま、ここ」にいるのか。それを歴史と考えれば、誰もが、自分自身の歴史を持つことになります。しかし、持っているにもかかわらず、それを理解できない状況があります。ある種の「孤立」といってもいいかもしれません。この認識を起点として、歴史をもつ存在、すなわち時の経過とともに生じてきたさまざまなつながりのなかに存在するものとして自分を理解できることを権利と捉えたとき、歴史学はこの権利の実現に貢献できるのではないかと思うのです。

歴史学は、過去の事実確定を中核的な機能としつつ、そこからさまざまな基準に即して過去を叙述します。歴史の専門家は「学問の自由」に基礎づけられた専門家のコミュニティに属し、相互に研鑽を積みます。そのコミュニティには、「解釈する」、「審判する」、「批判する」、「追及する」など、さまざまな機能が組み込まれています。ここで歴史を書くのは、専門家です。

他方、この学習権宣言に見られる「歴史の権利モデル」からみたときに、歴史学のまた異なる側面に光があてられることに気づきます。ここで権利の実現主体は、学界ではなく個々の人間であるため、学問の役割はどちらかというと、その補助や伴走をすることになってくるでしょうか。研究の成果を分け与えるのではなくて、一人ひとりが当事者として持っている歴史をつづるために研究が活用されるのであり、そこでは当事者と研究成果=学知を媒介する専門家としての研究者や教員の存在が肝要になります。あえて法律の世界になぞらえるなら、歴史研究の役割における裁判官や検察官のような側面だけでなく、弁護士のように、人びとの権利の実現のために働く役割に注目することはできないか、という見立てです。

自分自身の世界(one’s own world)と歴史(history)を架橋する

20世紀の半ば以後、歴史の研究対象は巨大な構造だけでなく、普通の人の日常の営みへの関心に導かれるように「個人化」の道を切り拓いてきました。この道筋は、これまでと違う角度から歴史の公共性を構築しようとする可能性の探求でもあったのかもしれません。いま、テレビ番組で有名人の家族の歴史を主題にするものが人気を得ているほか、いわゆる「自分史」もメディアで盛んに取り上げられていますが、そうした人びとの関心と、現代の歴史学はどのように交差し、新たな要請に応えていけるのでしょうか。学習権宣言の対比でいえば、それぞれの持つ自分自身の世界(one’s own world)と歴史(history)を架橋する力が、学問としての歴史学にはあると思っています。

長野県飯田市には、飯田市歴史研究所という、全国でもめずらしい市立の歴史研究機関があります。そこで研究員として働いていた時に、自分史を書くためのゼミナールを主催したことがあります。自分の中に消えずに残る大切な、しかし言葉にすることができていなかった過去の出来事を、ともに集う人たちと対話しながら少しずつ書いていく市民の姿に触れたことが、こうした着想を得たきっかけです。そこで書かれた人びとの記録は、確かに地域の歴史を豊かにするものでした。普通の個人の生活に、また別の個人、そして複数の地域や国家、世界の動向がつながっているのです。

写真1 自分史ゼミ 2014年 飯田市歴史研究所にて

「自分の歴史は自分で書く」をキャッチコピーにして、市民の皆さんと取り組んだ。

学問の社会貢献が言われる昨今、私は、均質な存在として想定されがちな社会なるものに対する貢献よりもむしろ、一人ひとりの権利の実現を通じた、その結果としての社会貢献という可能性を模索したいと思っています。それは、社会における歴史の役割を「関心」「趣味」「教養」の領域にとどめるのではなく、学ぶことで可能になる、幸せに生きる権利の実現に貢献する道を探ることと重なるに違いないと思っています。

写真2 自分史の写真

ゼミを通じて完成された作品は、人が生きてきた経験を伝えてくれる大切な記録だ。

関連研究プロジェクト
JSPS科研費 基盤研究(C)「戦後日本における「自分史」の展開に関する研究」(研究代表:安岡健一)(2020-2023)