マンスリー・トピックス

患者と医療者は見ている景色が違う ~新たな「健康・医療のための行動科学によるシステム構築」を目指す~

大阪大学人間科学研究科
平井 啓

2019年6月
患者と医療者のすれ違い

医療現場において、患者は医療者に対して「わかってもらえない」「医療者の言っていることが理解できない」「医療者に言いたいことが上手く言えない、伝わらない」と感じているのに対して、医療者も患者に対して、「わかってもらえない」「治療のことが伝わらない」「患者の気持ちや考えが理解できない」と感じている。このことが、昨年度、私自身も運営に関わるダカラコソクリエイトというがん経験者の団体の行ったアンケート調査で明らかとなりました。これは、例えば、診察室という同じ空間で、患者と医療者はとても近い距離で向き合っているにも関わらず、完全にすれ違っていて、これが医療コミュニケーションの日常の光景なのではないかと思います。

見ている景色が違う

このようなすれ違いの背景にあるのは、患者と医療者それぞれに「見ている景色が違う」ことだと考えています。例えば、患者が大きな森の中にいるとします。患者から見えているのは、目の前の木だったり、動物だったりします。その日の天気が良かったりすると患者にとっては、目の前でおこっていることに特に問題を感じず、「眼の前に2本の木が生えていて、きれいな葉っぱが見えます」というようにその様子を医療者に伝えるかもしれません(図)。一方で、医療者は、ちょうどドローンにのって森の上を飛んでいるので、その森をそのまま向に進むと崖があることを知っています。「そのままその森を歩いていくと危ないですよ」と、その可能性を患者に伝えようとします。しかし、患者は、「大丈夫ですよ。だって目の前には崖とか見えないですよ」というように話しています。このようなコミュニケーションは、症状のない患者に対して、主治医が糖尿病の治療や高血圧の治療が必要なことを伝えるが、患者は全く治療を始めるつもりはない、という場面で見られるものです。

患者と医療者のすれ違いを行動科学する

この図のような「患者と医療者のすれ違い」において、それぞれの見ている景色を違ったものにさせている要因として、行動科学の1分野である行動経済学では、それぞれの立場でさまざまな種類のバイアスが影響していると考えます。バイアスとは、判断や情報処理といった人間の認知過程において、系統的に逸脱する傾向のことです。人間の価値判断、すなわち意思決定や行動変容に影響を与えるバイアスを説明するのが行動経済学です。行動経済学では、われわれの意思決定にはこのようなバイアスといった心理的な要因が常に影響を与えていることを前提として、人間の意思決定のプロセスやその結果を捉えていきます。

先ほどのような患者と医療者のすれ違いは、患者のほうには、今の仕事や日常生活をできるだけ維持したいという「現状維持バイアス」、あるいは、治療を受けるという大きな意思決定を先延ばしにしてしまう「現在バイアス」の影響を強く受けていると考えられます。がん検診の受診や、症状がない状態で、心臓疾患、糖尿病などの慢性疾患が検査で見つかった場合も同樣の心理状態になります。これは、現在の生活で特に支障がないのに対して、このような疾患に罹患することによる自分自身への悪影響(損失)が少し遠い将来に発生するため、その影響が割り引いて評価されてしまうからです。

一方で、医療者のほうは、自分が専門とする疾患については専門的な知識を持っているため、将来の患者の損失を俯瞰的に捉えることができるので、それを正しい情報として自信を持って患者に伝えることができます。しかし、「正しい情報を患者に伝えれば、患者は正しい意思決定ができるはず」と思っているため、患者が自分自身の説明を理解できないことが理解できないことがあります。このように思ってしまうと、患者がわかるまで何度も面談を繰り返したりしなければならなくなります。

合理性を前提とした健康・医療コミュニケーション

この「正しい情報を伝えれば患者は正しい意思決定ができるはず」という考え方は、「患者は合理的な存在である」という前提に基づくもので、現在のインフォームド・コンセントの制度の前提にもなっています。これは、伝統的な経済学が、人が高い計算力を持ち、取得したすべての情報を使って合理的に意思決定ができる存在であると仮定していたことと似ています。しかし、医療コミュニケーションにおいては、患者も、そして医療者も「合理性」から逸脱する傾向、すなわちさまざまなバイアスがあるため、人々は目の前の問題に対して,直感やその場の感情に影響された非合理的な意思決定をしています。つまり、意思決定において合理性が実現できるのはきわめて限定的ということになります。このことを行動経済学では「限定合理性」と呼びます。

基幹プロジェクト「健康・医療のための行動科学によるシステム構築」では、合理性を前提とした健康・医療コミュニケーションの問題を、「限定合理性」を前提として捉え直し、それにあった仕組みを構築し、社会に提案していくことが必要であると考えています。そのために行動経済学を始めとする行動科学のさまざまな理論や手法を活用していきます。さらに健康・医療に関する実践家や当事者との連携により現実的な課題設定を行うことで、解決策の社会実装を一つでも実現できるようにしていきたいと考えています。まずは、がん、心疾患、糖尿病などの慢性疾患の治療や認知症治療における意思決定をめぐる「患者と医療者のすれ違い」について、また、「組織の中でのすれ違い」がその背景にあると考えている働く人のメンタルヘルスにおける予防行動などのテーマについて取り組みながら、そのテーマを拡大していく予定です。