マンスリー・トピックス

人間の安全保障(human security)とはなにか

社会ソリューションイニシアティブ副長/人間科学研究科教授
栗本英世

2018年5月
 

1994年の国連開発計画(UNDP)年次報告『人間開発報告』で、「人間の安全保障」の概念が提起されてから四半世紀近くが経過しました。「欠乏からの自由」(freedom from want)と「恐怖からの自由」(freedom from fear)を二つの柱とし、国家を単位とする従来の安全保障ではなく、一人一人の人間に注目するこの概念は、現代世界に存在するさまざまな非安全・非安心(insecurity)——経済、政治、食糧、健康、環境、コミュニティなどの側面にわたるに——注目し、対策を検討するうえでおおきな役割を果たしてきました。

国連が主導して進められてきた、ミレニアム開発目標(MDGs)と持続的開発目標(SDGs)も、その基礎には人間の安全保障の考え方があります。「命をまもる、はぐくむ、つなぐ」ことをスローガンとして掲げるSSIも、この概念に真正面から取り組む必要があるでしょう。国連と国際社会が掲げる理念には、流行りすたりがありますが、私は人間の安全保障は色あせない理念であると考えています。なぜなら、この概念の根底には、「尊厳ある人間的生活とはなにか」という普遍的な問いがあるからです。

南スーダンにおける人間の安全保障

私は、人類学者として、南スーダンの人びとを、過去40年にわたって調査研究の対象としてきました。継続的に内戦状態にあり、大量の難民と国内避難民が発生し、政府の機能が麻痺しているこの国では、当然のことに人間の安全保障は、おおきな脅威にさらされています。UNDPが発表する人間開発指数(HDI)では、全188か国中、最下位にちかい181位(2017年)に位置しています。人びとにとって、欠乏からの自由とは、今日明日の水と食べ物を確保すること、恐怖からの自由とは、武装集団や軍隊による掠奪やレイプを受けないこと、最終的には殺されずに生き延びることを意味しています。

私は、南スーダンのなかでも、東エクアトリア地方のパリ(Pari)という民族の人びとと親しく付き合ってきました。他の諸民族と同様、この人たちに対しても、国際機関によるさまざまな人道援助と開発援助が行われてきました。しかし、この40年のあいだに人間の安全保障の状態が改善したとは言えません。この事実は、援助のあり方の再考という課題に私たちを導くことになります。

さらに、パリの人びとを、たんなる援助の受け手ではなく、「生きる主体」とみなす視点も重要です。この人たちが、困難な状況のなかで、家族・親族やコミュニティとしてのつながりを維持しながら、生き延びてきたことは事実です。そこには、在来の知恵や仕組みがあるはずです。彼らの社会は、強いレジリエンス(resilience、復元力)を備えていると言えます。そこから私たちが学ぶことはあるはずですし、そのことは、人間の安全保障という概念を深め、広げるためにも意義があると考えられます。

写真1. 乾季になって干上がった川床に掘った、深さ数メートルの井戸から水を汲み上げる女性たち。飲料水と生活用水の確保は、生存のための必要条件です。人口1万人を超える村には、手押し式の「近代的」な井戸はひとつしかないので、こうした井戸を掘って水を得ています。雨季には川の水や溜まり水に依存しています。2011年撮影。
写真2. アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)が供給し、世界食糧計画(WFP)が配給した人道援助食糧のアメリカ産ソルガム(モロコシ)。人道援助は、本当に必要なときに、人びとに届くとは限りません。この援助食糧が配給されたとき、村の人たちは、「飢餓状態」にはありませんでした。2011年撮影。
現代日本における人間の安全保障

さて、日本という国は、開発や発展という尺度でみたとき、南スーダンの対極にあります。HDIは、世界17位に位置しています。では、この国では人間の安全保障が十分に達成され、一人一人の人間は安寧に暮らしているかというと、かならずしもそうではないでしょう。むしろ、過去20年ほどのあいだに、あらたな欠乏や恐怖が出現しています。

具体的には、社会階層間の移動性が減少し、貧富の差が確定すると同時に、あらたな貧困層が増加しています。貧困層の人びとにとっての欠乏は、たんに物質的な面だけでなく、社会関係資本にも及んでいます。また、現代日本に生活する人びとにとっての恐怖は、将来と老後に関するものです。恐怖というとおおげさかもしれませんが、もとの英語はfearなので、心配といってもよいでしょう。現在の生活水準を将来にわたって維持できるのか、年老いて介護が必要となったときにどうなるのか、といった心配は、大多数の人たちが抱いています。全体的に、現代日本における生活は、非安全・非安心(insecurity)の方向に進みつつあるのではないでしょうか。

南スーダンと日本では、欠乏と恐怖のあり方はおおきく異なっています。しかし、いずれも、人間の安全保障という考え方に基づいて問題を考察することが可能です。この概念の強みは、ここにあるといえます。今後、SSIの活動が展開していくなかで、人間の安全保障の概念も深まっていくことを期待しています。全地球的な規模で、非安全・非安心をいかに軽減し、「尊厳ある人間的生活」をいかに実現できるのか、共に考えていきましょう。