マンスリー・トピックス

南海トラフ地震からの「復興」に問われること

社会ソリューションイニシアティブ企画調整室長/工学研究科教授
木多道宏

2018年4月
都市を進化させた関東大震災からの復興

1923年9月1日11時58分に関東大震災が発災しました。建物の全壊は10万9千余棟、全焼は21万2千余棟に及び、死者・行方不明者は10万5千人余であったと推定されています。その一方で、震災復興は社会と空間のあり方を劇的に変えました。例えば、消失したスラム地区の跡地には、新たな近代の方向性を指し示すようなアパートが建設されました。井戸端や路地裏のような近隣関係を醸成するコモンスペースを備え、児童福祉、生活指導、授産事業などを担う地域福祉センターをも併設していました。また、近隣スケールでは、小学校区が地域コミュニティの重要な基盤として再認識され、校庭と公園が接続する公共空間が地域の核として再整備されました。さらに都市スケールでは放射状街路と環状街路の骨格が導入され、国際都市に相応しい新たな都市機能を備えるためのインフラストラクチャーが整えられたのです。

これは、1917年に自主的に設立された「都市研究会」が、社会をより良いものにするために調査と提案を重ねてきた成果が結実したものです。彼らはスラムの居住者の家計や生活様式を徹底的に調査し、大切な暮らしの原理と近代の技術を融合させる集合住宅の提案を行いました。また、新たな街路を生み出すための土地区画整理の制度化など、建築・都市に関わる法律の起草も行なっていました。これらがなければ、東京は近代を乗り切るための社会基盤を手に入れることはできませんでした。関東大震災は全ての「準備」が整った後の発災だったのです。

大災害の意義

現代は大災害の時代とも言われ、数十年のうちに南海トラフ地震が生じ、未曾有の災害がもたらされると予測されています。私たちは関東大震災からの復興に匹敵するような「準備」を行なっているでしょうか。

ヒントは近年日本で生じた災害にあります。阪神淡路大震災では大都市においても近隣やコミュニティの大切さが改めて認識されました。中越地震では、人口減少が加速する中、人と人との結びつきが新たな価値を生み出す「創造的復旧」の概念を得ることができました。仮設住宅で生活する間、普段は会うことのなかった異なる集落の人々が仮設農園で出会い、主婦層を中心に産直販売などの新たなビジネスを生み出し、帰村後には販売所が地域の寄り合いの場所となりました。東日本大震災では、今もなお重要な復興の取り組みが続いていますが、広域市町村合併により役場機能を失った地域の運営のあり方、人口減少と縮退の時代における都市・地域開発のあり方については、答えを得ないままです。

防災活動の先にある未来社会の構想

都市研究会のリーダーシップを取った後藤新平(内務大臣)は、元々は医師であり、人の生命は、細胞個々の働きと、人を良くあらしめようとする大きな働きが両立して維持されるとの考えがありました。国家や都市も同様であり、家や学校のような細胞の単位と、都市のような大きな身体の単位が調和して初めて健全な社会ができると考えていました。都市の最小の単位は人であり、晩年も自ら復興小学校に赴いて、児童の育成に尽くしたのです。

南海トラフ地震が来る前に準備しておくことは、未来の社会の構想であり、それに向けた提言と実践です。縮退の中で新たな価値や産業を共創しながら、医療や福祉のネットワークと圏域をコミュニティの単位として、信頼関係に基づく自律的な地域社会の形を見出すべく、生態系の回復をも実現しながら前に進んでいくことです。筆者の研究室では、紀伊半島の4県における2都市3地域を対象に、「事前復興まちづくり」を進めています。和歌山県広川町では11の大字にわたる人々と協働し、井戸の歴史からコミュニティや地盤の特質を読み解き、井戸掘りによる事前移転先の形成と地域マスタープランの策定を目指しています。それぞれの個性や技能を生かし合うことで都市の活動が再編成され、やがてそれがランドスケープへと表現される仕組みをつくることが、南海トラフ地震に向けた準備の一環だと考えています。

ワークショップの風景 模型を囲み、グループごとの成果を確認し合う
ワークショップで指摘された井戸のプロット図 マスタープランの構想の重要な根拠となる