マンスリー・トピックス

73歳の私の夢

核物理研究センター 名誉教授
土岐博

2020年4月
私の夢

今の私は73歳。退職からすでに10年が経過したことになります。現役時代はとにかく最優先が原子核物理の理論研究であり、その綺麗さ、複雑さ、難しさを多くの学生や共同研究者と楽しんできました。退職後はすべての時間を自分の好きなことに使おうと考えました。そのうちの半分の時間は社会のために使おうとも考えました。

退職して自由時間を得たときに、周りでは認知症が社会問題になっていました。老化で引き起こされる認知症は誰しもが罹患する可能性があります。超高齢社会では大量の認知症高齢者を抱えることになります。多くの認知症高齢者が周りにいることが当たり前の社会になります。私はこれを社会の病気と捉えています。私にとっては全く新しい課題ですがまずは、認知症は何かを多くの人で共有する必要があると考えました。そんな気持ちで始まった「大阪大学EDGE認知症横断プロジェクト」では毎月1回、素晴らしい講師を招いてのセミナーとそれに伴う自由討論を3年間開催しました。あまりに素晴らしい内容なので、一部を本の形に編集し発行しました。

3年間の認知症横断プロジェクトは多くのことを教えてくれました。大学の内外に多くの仲間も得ることができました。さらにはタイミングよく、大阪大学のSSIが「認知症横断プロジェクト」の受け皿になってくださり、現在ではSSIの一つのプロジェクトとして「命を守る自律プロジェクト」という形で発展しています。

今回はSSIがこの文章を書く機会を作ってくれました。今の段階で私が考えている3つの夢を書いておきたいと思っています。その夢はなんとか自分の力で実現したいと思っています。もちろん周りのすべての人との共同作業になります。

 

健診データから未来の病気を予測するAIを作る。人は自律的に健康を守り、社会は自律的に社会健康を守る。

個人が確定できないように個人情報を削除した大阪国保データは全世代の健診データ、医療レセプト、介護情報、医療内容が紐づけられています。大阪府の被保健者は毎年200万人くらいで後期高齢者制度には100万人くらいが加入しています。このビッグデータを分析すると、どのような健診結果を持つ人はどのような病気になるのかを引き出すことが可能です。大阪府の国保データは各年度で約60万人の健診データが収録されています。それらの人たちのその後の医療の内容も全て収録されており、これらのデータをAIに与えることで、それぞれの人の未来の病気を予測できるAIを作ることができます。

幸い、スマートフォンの大阪府主催のアスマイルにこのAIを搭載することが決定されています。大阪府の国保被保険者は自らの健診結果から未来の病気を予測できます。もちろん認知症も対象にしています。しかも、歩数を増やす、タバコを止める、飲酒量を減らすことで、健診値が変化することもAI計算し、その努力をした場合の未来の病気予測もできるようになります。今の計画では大阪府に限っていますが、今後はこの計画を国全体に広げていきたいと思っています。

2050年の国全体の医療費と介護費の合計は約90兆円規模になると試算されています。現在の数字の倍くらいになります。私の夢は国民全員が自律的に自らの健康状態を知り、健康を維持する努力をすることで、この総額を半減することです。社会が健康になることで、強くて弾力のある社会を実現したいと思っています。

健診データから未来の病気を予測するAIを搭載するスマホアプリのアスマイルの画面。
身近なツールを使うことで、日常の個人の努力を促し、自律的に自らを守ることを目指します。

極微量信号で働くコンピュータを作る。ノイズレス社会を実現する。

コンピュータは多数の信号の集合体を使って複雑な計算をしています。多数の信号はお互いに影響しながら回路内を走り回っています。お互いに影響している現象は一つの信号から見れば、他の信号の全てがノイズになります。もし、このノイズレベルを下げることができれば、コンピュータ信号のエネルギーを低く抑えることが可能になります。これは大幅な電力削減に繋がります。冷却装置も要らないコンピュータになります。

コンピュータ信号は2本の導体線を伝って走ります。この2本の電線が他の電線から隔離されると、他の信号に邪魔をされない事で、超微量信号が欲しいところに伝わります。したがって、2本線を他から中立化(3本線化)させることで、他の電線からの寄与を少なくする事が可能になります。この中立化の技術を高める事で、信号密度を向上し超微量信号で駆動するICを実現する事が可能になります。

これからは車も電力駆動に移行します。現在の回路技術ではコンバータ・インバータは強烈なノイズを放出します。ここでも電力を伝搬している2本線を中立化する事でノイズの放出を低減する事が可能です。燃費削減につながります。自動運転の際の誤作動を防ぐにはこのノイズ削減技術は必ず必要になります。

私の夢はノイズという無駄な電力を削減する事で、ノイズレス社会を実現する事です。それぞれの回路のノイズを削減する中で、電線の地中化も推進し、現在巷にあふれているノイズを地中に封じ込めたいと思っています。

Googleのデータセンターでスパコン冷却のために水蒸気が放出されている様子。
(Nature誌のコンピュータと熱の記事から抜粋: Nature 492 (2012) 174)

原子核物理の理論研究を推進する。日本人が牽引してきた原子核物理を根本から解明する。

原子の中に原子核が存在することを提唱したのは初代阪大総長の長岡半太郎です。量子力学の誕生から原子の中に、その10万分の1の半径しか持たない原子核が存在する事が定着しました。若き湯川秀樹はそんな小さな世界で原子核が安定に存在するのはなぜだろうと考えて、強い相互作用を媒介するパイ中間子を提唱しました。興味深いことに、このパイ中間子は特異な性質を持っています。なぜ、そんな特異な性質を持つべきかを解明したのは南部陽一郎です。そんな大きな研究成果が阪大にゆかりの先生から提唱されてきています。

パイ中間子は擬スカラー粒子と呼ばれており、核子のスピンを反転させることで核子同士を相互作用させています。そのような相互作用が核子間に働いていることで原子核が安定に存在しています。原子核は2〜300個くらいの核子がお互いに相互作用しあっている非常に複雑な多体系です。

これまでの原子核物理ではパイ中間子の取り扱いがあまりに難しく、相互作用を単純化して、実験データが再現されるように工夫してきました。コンピュータが強力になってきた現在、この複雑な多体系の成り立ちをAI技術によって解きあげる事が可能になってきています。

私の夢は、日本人が牽引してきた原子核物理を日本人の手で完全に解明する事です。原子核の完全理解により、太陽・惑星およびそれを取り巻く宇宙の成り立ちを正確に記述する事が可能になります。

単独の赤丸と青丸は陽子と中性子を表します。約90%の確率で原子核内を光速の20%で運動しています。
パイ中間子の働きで約10%の確率で2つが対になり高速回転します。この機構で原子核が束縛します。