基幹プロジェクト

「わからなさ」を生きるための問いとことばの育成――アンラーニングの理論・実践研究
Cultivating Questions and Language to Live with "Unknowing": Theoretical and Practical Research on Unlearning

【 研究代表者 】岡部 美香 人間科学研究科 教授

【概要】
より安全で安定した生活を、より快適で豊かな生活を――多くの市民が抱くこの素朴な願望を叶えてきた近代以降の社会は、いま、さまざまな局面で深刻な機能不全を露呈している。

本プロジェクトは、この機能不全の根源に、単なる制度の未整備や運用不足だけではなく、人間の経験そのものが、ロゴス的な言葉(オーソリティによる制度・評価・説明のための言葉)には回収し得ないパトス的な位相を本来的にもっていること、そして、人間の生(生命・人生・生活)の現実とそれを表現することばがこの位相に十分に対応していないことがある、と捉える。

語源が示すように、経験――experience=ex(外へ、外に)+periri(試みる、危険を冒す)――とは本来、馴染みのある安全で安定した日常の〈外〉に出て、危険・危難を被りつつ試行錯誤すること、またその過程で人間のうちに生じる変容(成長だけでなく喪失や歪曲を含む)を意味する。この点を踏まえると、経験には少なくとも二つの位相がある。

一つには、ロゴス的な近現代社会における経験――すなわち、あらかじめ枠組みが整備され、予測・計画・準備・コントロールが可能で、一定の手続きを踏めば、誰でも、どこでも、いつでも、同様に一定の経験ができたと認定されうる位相である。ここでは経験は、評価や管理の対象となり、所有可能、積み立て可能な能力へと回収されやすい。
もう一つには、経験には、既存の知で把握しようとするはたらきを超えてしまうような、既存の思考や理解の枠組みに含みこむことができる以上のものを含んでしまうような、過剰な出来事として立ち現れる位相がある。ここでは経験は、ロゴス的な言葉や思考・理解の枠組みにそのまま回収されず、むしろ、それらを揺さぶり、言葉になりきらない「わからなさ」を伴って、経験する者の内側に残り続ける。生きている人間の経験に残り続ける「わからなさ」は、制度や言語が不十分だから、あるいはそれを十分に習得していないから残ってしまうというだけではない。経験が本来的にロゴス的なものに回収されない位相を含むがゆえに、必然的に既存の知や従来の思考・理解の枠組みからはみ出し、零れ落ち、あふれ出すものなのである。

決定的に重要なことは、このようにはみ出し、零れ落ち、あふれ出すものは単なるバグやノイズではなく、これらこそが、既存の知や従来の思考・理解の枠組みを超えて、また予測や計画やコントロールを超えて、ほかの誰でもないこの私が、その時に、その場で、その出来事を生きた/生きているのだという独自性・特異性の確かな証として、この世界に現れ出たものだ、という点である。つまり、この「わからなさ」は、知識や理解の不足の徴候ではなく、生の現実に触れていることの徴(しるし)であり、人間の経験の核心そのものなのである。実のところ、このような「わからなさ」は、災害のような極限の非常事態に限らず、日常の微細な人間どうしの相互行為のなかにも頻繁に生起している。本プロジェクトがパトス的なものと呼ぶのは、まさにこの後者――予測・計画・コントロール可能性の〈外〉へあふれ出てしまう出来事の渦中で、ほかの誰でもないこの私がいま・ここで生きていることを証しする経験の位相――である。

経験のパトス的な位相は、「わからなさ」を伴いながらも、確かに生きられた出来事として個々人の内に沈殿し堆積している。だが、その経験が何であり、自分にとってどのような意味をもつのかは、出来事を自分にとって意味のあるものとして語ることばをもたないかぎり、しばしば容易に社会的にはなかったこと、意味のない些末で些細なことにされてしまう。経験は、語られてはじめて、他者との公共の場で共有され得る現実のものとなるからである。ところが、私たちが最初に身につける言葉、そして学校教育を通して習得する言葉は、すでに社会(の中心)で流通しているロゴス的なマスター・ナラティブ――国語、共通語、「正しい」、「ふつうの」、あるいは「みんなが」いっている言葉や物語――であることがしばしばである。それは、世界を説明し、秩序づけ、理解可能にするための強力な言葉である一方で、個々人が生きて経験した出来事の具体や痛み、逡巡や沈黙を、そのままのかたちで受けとめることばではない。結果として、多くの人びとは、他者に聞いてもらい理解してもらうために、自分が確かに経験したはずの出来事を、既存の語彙や物語の枠組みに当てはめようとするか、あるいは語ること自体を諦めてしまう。そこには、言葉になりきらない「わからなさ」が残る。この言葉になりきらない「わからなさ」を、ロゴス的なマスター・ナラティブによって拙速に回収しようとすると、結果として、経験のパトス的位相が不可視化され、他のだれでもないその人の語りとそれによってかたどられる経験とその意味が失われる。

とりわけ現代の若者たちは、マスター・ナラティブを「使いこなす」ことはできても、それとは異なる仕方で自分の経験をかたどり、語るためのことばをもたないまま、社会に送り出されている場合が少なくない。しかし、既存の社会のあり方そのものが「生きづらさ」を生み出している状況において、マスター・ナラティブだけを用いて世界を理解し、語り、その理解や語りに基づいて行為することには限界がある。自分の経験を自分のことばで語ることなしに、一個人として自分らしく生きることも、既存の社会を超えて、より生きやすい社会を構想し、つくり出していくことも難しい。この点を鋭く指摘した研究者の一人が、G.C.スピヴァクである。スピヴァクは、既存社会の中心―周縁構造のなかで周縁化された人びとが、自らのことばで語ることの困難さを繰り返し論じてきた。問題は、単に彼らに語る知識や機会が保障されていないことではない。むしろ、支配的な言語や物語による代理/表象が、彼ら自身のそれぞれの語りを(多くの場合、それと知らずに)奪ってしまっているという点にこそ、決定的な困難がある。だからこそスピヴァクは、マスター・ナラティブを単純に否定するのではなく、それに精通しながらも、その使用を自己抑制するとともに、それを既存の目的とは異なる仕方で用いるという実践を提唱する。彼女が「言論の自由を行使しないという自由」や「肯定的なサボタージュ」と呼ぶこの態度は、言葉をもち使用することそれ自体が暴力になり得るという自覚に支えられている。この自覚にもとづいて自らを整え直す過程を、スピヴァクはアンラーニングと呼ぶ。ここでいうアンラーニングとは、ロゴス的なマスター・ナラティブを否定することではなく、それへの拙速な回収をいったん停止し、言葉になりきらないが確かにそこにある個々人の生きている経験の位相を損なわないように「わからなさ」を保持する時間と経験を引き受け、それを自分のことばで語る(語り直す)ことを試みることである。しかしながら、このアンラーニングは、決して容易な営みではない。マスター・ナラティブから距離を取り、自分のことばの使い方を根底から問い直すことは、既存の知の秩序や思考・理解の枠組みが提供してくれる安心感を越え出ていく経験、すなわちtransgress(逸脱/侵犯)の経験を伴う、とスピヴァクは指摘する。彼女によれば、それは、これまでわが家同然に安全で安定していると感じられていた言葉や世界が、突如として不気味で疎遠なものへと反転する過酷な体験でもあるのだという。では、このような困難で、ときに耐え難いアンラーニングの過程に、私たちはどのように向き合い、また、それに向き合う人々をどのように支えることができるのか。自分の経験を語ることばや語る機会をもたない人びと、特に次世代の子どもや若者が、マスター・ナラティブに呑み込まれることなく、それでも社会と関わり続けるためには、どのような条件と実践が必要なのか。この問いに応答することこそが、本プロジェクトの中心的課題である。

以上を踏まえ、本プロジェクトは、「わからなさ」を排除せずに保持し、問いとして育て、市民が、とりわけ次世代の子どもや若者が、他のだれでもない自分の経験を生きるなかで自分のことばを獲得して、他者へ、そして公共へと接続していく学びの仕組みを再設計する。とりわけ近代の学校教育が前提としてきた「答えへの教育」「標準化された理解」「評価可能な成果への収斂」を批判的に捉え直し、オルタナティブな語りと経験を生み出す教育および人間形成の場の条件を、理論・実践フィールド研究を通して具体化する。具体的には、次の2つの理論・実践フィールド研究を通して本プロジェクトを推進し、各フィールドで得られた知見を相互に往還させながら、教育実践と理論の双方を更新する。

【①地域の公立高校における「総合的な探究の時間」における探究活動支援】
本プロジェクトの第一の実践フィールドは、高校における探究学習(総合的な探究の時間)に伴走し、高校生が自分の経験をかたどる自分のことばを獲得していく過程を、教育実践として設計・検証する取り組みである。この取り組みは、これまで大阪府教育委員会および大阪府立高校と連携して蓄積してきた探究活動支援の実績を基盤とし、同一の枠組みを継続しつつ、アンラーニングの視点から支援方法を精緻化するものである。本フィールドでは、SDGsに関連する社会課題を素材としつつも、単なる課題理解や安易な結論・提案の導出に早期に収斂させない。むしろ、その成立過程や前提となる価値観を批判的に検討することを足場に、高校生が自らの問題意識と経験に根ざした問いを立て、社会課題へ「自分事」として関わっていく視点と振る舞いを形成することを目標とする。その過程で高校生は、既成の語彙や思考・理解の枠組み、評価軸に依拠して「うまく説明する」ことよりも、言葉になりきらない「わからなさ」を保持しながら、自らの経験をかたどることばを〈いのちの声〉として模索する。

また、本プロジェクトは、高校生のみならず、大学生・大学院生が高校生の探究活動支援に参画する体制を重視する。大学生・大学院生は、支援の担い手として高校生に「教える」のではなく、探究の協働者として、高校生の問いの生成・再構成に伴走する。そのために大学生・大学院生も、既存の知やオーソリティに支えられた思考・理解の枠組みに安易に依拠せず、自分自身のことばで問いを立て、考え、発信する学びの経験を経て支援に関与する。これにより、高校生の学びと同時に、支援者側(大学生・大学院生・学校教員)自身の探究力とことばも鍛えられるという二重の教育効果が成立する。この二重の効果を実質的なものとするため、大学生・大学院生は高校での支援実践に入る前に、大阪大学人間科学部・人間科学研究科ないしは教職課程の授業において、探究の内実と過程および探究活動支援の要点を学ぶ。加えて、実践前には高校側教員との綿密な打ち合わせを行い、実践後には同じく省察会(振り返り)を実施する。これにより、支援の経験を単なるボランティア経験として終わらせず、大学生・大学院生自身、そして学校教員自身の探究力とことばを継続的に育成する学びの過程として位置づける。このように本フィールドは、事前学習→事前打合せ→実践→事後省察という往還を組み込み、探究活動支援を実践しながら、世代間相互交流を通して学ぶアンラーニングの過程として設計されている。大学生・大学院生による支援活動は、単発的な講義やイベントではなく、(1)「問いを立てる」ためのワーク、(2)大学の学術資源(学内外の大学教員、大阪大学附属図書館や論文検索サイトなど)への接続、(3)高校内での探究活動支援と指導助言、(4)オンライン等を用いた継続的な伴走を組み合わせ、探究を継続的な経験として支える設計とする。本プロジェクトを通して、高校生は、学内外の発表会等において探究活動の成果を発表し、問いの成熟とかたりの公共化を経験する。

さらに本プロジェクト全体の成果は、実践の知見を理論化しつつ、書籍やテキスト、ワークシートなどの形で整理・公開することで、学校現場や教員養成に還元可能な実践知として提示する。以上の設計により、本フィールドを、高校生・大学生・大学院生・学校教員が相互に交流しながらそれぞれに「わからなさ」を保持しつつ問いを育て、自分のことばを獲得して他者、そして公共へ接続していこうとするアンラーニングの実践拠点として地域の教育のなかに位置づけていく。

【②うたとかたりが「わからなさ」を生きる力に変換する仕組みの解明】
本プロジェクトの第二の理論・実践フィールドは、唄・民話・おとぎ話(以下、うた・かたり)が、人間の生が不可避に抱え込む「わからなさ」や不条理に対して、どのように耐え得る足場を与え、人間の経験を支えることばの源泉として機能してきたのかを、フィールドワークに基づいて解明する。ここで着目するのは、うた・かたりが単なる既存の教訓や知識の伝達ではなく、人生の危険・危難の「エキス」を、過度な重圧を伴わない形で心身に蓄積させる仕組みになり得るという点である。すなわち、来るべき人生の受苦的経験に備えるための「経験の胎盤」(藤田省三)を形成する働きとして、うた・かたりを位置づける。

本研究のフィールドは、(a)守口市立守口さつき学園夜間学級と(b)梅花女子大学こうめ文庫である。両フィールドにおける参与観察およびインタビューには、大学生・大学院生も研究協力者として参加し、調査実践そのものをアンラーニングの契機として位置づけるとともに、「わからなさ」を拙速に説明へ回収しない記述と対話の経験を通して、彼ら自身のことばをブラッシュアップする学びの機会とする。本フィールドにおける知見の整理と理論的検討は、主として月1回開催の「柳田国男読書会」(同志社大学・小野文生氏、福岡教育大学・古波蔵香氏と共同開催)および年4回程度開催のAlternativeEducationalAnthropology研究会(以下、AEA研究会、立命館大学・鵜野祐介氏と共同開催、金沢星稜大学・門前斐紀氏、鳴門教育大学・谷村千絵氏、大学生・大学院生も参加)において継続的に行い、概念、解釈枠組み、記述の技法などを相互にブラッシュアップする。

(a)夜間学級では、生徒へのインタビュー調査を通して、人生のある局面で「どうしてよいかわからなくなった」経験の只中において、本人を支えたことば(唄、民話・おとぎ話、座右の銘、ことわざなど)を聴き取り、①それらがどのような状況で想起され、②どのようなかたちで自己理解・自己保持・他者との関係の再構成に寄与し、③「わからなさ」を拙速に処理せず保持するための足場としていかに機能したのかを分析する。ここでは、語りが「正しい答え」や「説明可能な結論」へ回収されやすい圧力をいったん退け、本人の経験に沈殿している言葉になりきらない層(逡巡、沈黙、言い淀みを含む)を、そのまま記述し得る方法を模索する。目的は、周縁化されやすい経験を「なかったこと」にしない記述の条件を整え、経験のパトス的位相を支える言語実践の具体像を提示することにある。なお、この夜間学級への継続的な関与は2021年よりすでに行っており、これまでも「総合的な学習の時間」に大阪大学の大学生・大学院生を非常勤講師や支援者として派遣する等の活動を行ってきた。この従来の協働関係を基盤としつつ、インタビューの設計・記録・分析に大学生・大学院生が関与し、調査前後に実施する綿密な打ち合わせと省察会を通して、自らのことばや思考・理解の枠組みがどのように生徒たちの経験を回収してしまうか、あるいは広げ豊かにするのかを考察する。

(b)こうめ文庫では、幼稚園児への読み聞かせ活動をフィールドとし、とりわけ「ままならない経験」(喪失、理不尽、恐怖、孤独、裏切り、不可解さなど)を主題化している民話やおとぎ話の読み聞かせが、子どもにとってどのような意味をもつのかを、参与観察と記録に基づいて検証する。具体的には、こうめ文庫で開催される読み聞かせの会(読み聞かせ・絵本紹介は月1回程度、紙芝居は年2回程度)において継続的に参与観察する。参与観察には大学生・大学院生も参加する。河合隼雄によると、民話・おとぎ話には、人間がリアルな人生で経験する心的過程を表現する「典型的なイメージ(元型)」が含まれ、子どもは仮構の世界を「仮に生きる」ことを通して経験の「エキス」を蓄積し得るとされる。この観点から、読み聞かせの場において、
(1)子どもがどの局面で身振り・表情・ことば(ため息、うなり声、沈黙を含むいわゆる詩的言語としてのことば)を変化させるのか、
(2)「怖い/わからない」をどう受けとめ、どのように身振り・表情・ことばへ移すのか、
(3)「内容」だけでなく「誰から聴くか」「どのように聴くか」が経験の保持にいかにかかわるのか
を、微視的に記述する。

さらに、読み聞かせをする教員・ボランティアへのインタビュー調査を加え、うた・かたりが子どもの経験と共振・共鳴する条件(声の調子、間、身体距離、場の秩序など)もあわせて検討する。以上の2つの現場で得られた知見を統合することで、本フィールドは、うた・かたりが「わからなさ」を除去するのではなく、むしろ「わからなさ」を抱えたまま生き抜くための経験の基盤を育てるわざとして機能してきたことを、実証的に示すことをめざす。換言するなら、本プロジェクトは、夜間学級における「支えのことば」の聴き取りと、こうめ文庫における「ままならなさを聴く場」の観察を往還させながら、パトス的な経験とことばの実践との接続条件を精緻化する。これにより、学校教育が回避しがちな不条理・理不尽・恐怖といった主題を、子ども/若者/成人がそれぞれの仕方で引き受け、他者、そして公共へ接続していくための、教育的・文化的な仕組みやわざを具体的に提案する。

研究協力者(学内)
中村晃輔(人間科学研究科・大学院生)
平根晶(人間科学研究科・大学院生)
柴崎萌加(人間科学部4回生)
人間科学研究科開講「教育哲学」・「教育人間学(特定)演習」の受講者
教職課程「総合学習・特別活動論」の受講者
大阪大学附属総合図書館の担当者(2025年度は森石みどり氏)

研究協力者(学外)
鵜野祐介(立命館大学・教授)
小野文生(同志社大学・教授)
古波蔵香(福岡教育大学・講師)
門前斐紀(金沢星稜大学・講師)
川上英明(山梨学院短期大学・准教授)

共同研究機関(自治体等を含む)・連携機関
大阪府教育委員会
大阪府立天王寺高等学校
守口市立守口さつき学園夜間学級
梅花女子大学こうめ文庫

研究キーワード
教育学(教育哲学・教育人間学)、アンラーニング、探究、経験、ロゴス・パトス、「わからなさ」、自分のことば、民俗的表現(唄・民話・おとぎ話など)
社会課題
近代以降のロゴス的社会の機能不全、マスター・ナラティブによる(とりわけ周縁化された)人間の経験の不可視化、ことばの力の賦活と探究力の育成による公正な教育、生(生命・人生・生活)の条件整備に向けた社会参加/市民参加