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医療の現場に行動経済学を活かす

大阪大学経済学研究科教授
大竹文雄

2018年8月
『医療現場の行動経済学』
SSIのプロジェクトの一つである健康・医療の行動経済学的研究の成果として『医療現場の行動経済学』(東洋経済新報社)が7月27日に出版され(図1)、8月4日に東京で出版記念フォーラム(図2)が開催されました。行動経済学という経済学の新しい分野は、人間の意思決定の現実的な特徴を取り入れた経済学です。行動経済学の知見を活かすと、人々の意思決定をよりよくできる可能性があり、実際に様々な分野に応用されて始めています。この研究プロジェクトは、医学、公衆衛生学、心理学、人類学、行動経済学といった様々な分野の人たちが共同研究を行ってきたものです。現場で生じている課題を行動経済学の視点で解決しようというプロジェクトであり、その成果は非常に実践的なものです。多くの人に成果を知ってもらうために、一般向けの書籍を出版し、書籍の内容を説明するためのフォーラムも開催しました。東京駅近辺で開催したフォーラムには、医療関係者、マスコミ関係者などを含む85人の参加がありました。出版は現在のところ順調で、出版後2週間程度で重版が決定しています。
フォーラムは、第一部で石川善樹氏と私が対談をしながら本の内容紹介、第2部で、共同編者でこの研究プロジェクトの仕掛け人である平井啓氏と第4章「がん治療における意思決定支援」の執筆陣による執筆経緯紹介、第3部で各執筆者からのメッセージとSSI長の堂目卓生教授からの挨拶という構成で行われました。フォーラム参加者からは、「本の内容とともに異分野の研究者の融合研究の難しさと楽しさが伝わった」という多くの感想を頂くことができました。
本の構成を紹介しましょう。各章の冒頭には、その章の内容を理解できるような会話例とポイントを示していて、多くの人が理解できるように配慮しています。

書籍「医療現場の行動経済学」
この研究プロジェクトと本ができたきっかけ
病気になって病院に行き、医者から病気の治療方針や手術についての説明を受けた経験がある人は多いでしょう。その際、患者は様々な意思決定を迫られます。医者は、治療法をいくつか提案して、それぞれのメリットとデメリットを述べます。「後遺症が出る確率は何パーセント、うまくいく確率は何パーセントです」、「もう少し検査をすると正確なことがわかるかもしれないですが、検査をするには痛みと傷跡が残ります」というものです。「終末期になった時に、人工呼吸などの生命維持治療を行いますか?」という質問を受けることもあります。こういう質問に、すぐに答えられる患者は少ないでしょう。選択の自由があることは嬉しいですが、医療の専門家でもない患者が、医者から与えられただけの情報で正しい意思決定をできるとは限りません。もう少し患者が意思決定しやすいように聞いてもらえたら、と多くの人は思っているでしょう。
一方で、医療者側は患者に病状と治療方針を説明して、その同意を取る必要があります。しかし、患者がなかなか意思決定をしてくれなかったり、医学的にあまり望ましくない治療方法を要望してきたりするという経験をもっています。その際、正しい情報を提供さえすれば、患者は合理的な判断をするはずだ、ということを医療者は考えていることが多いようです。実際、本の執筆者の一人である医療者は「行動経済学を知るまでは、患者への情報提供が足りないから、患者が良い意思決定ができない。もっと、情報を提供すれば必ず患者は良い意思決定ができるようになる」と考えていたと私に語ってくれました。
私がこの医療者の考え方を知ったのは、私が討論者として参加した2014年11月日本行動医学会のシンポジウムでした。本の共編者となった人間科学部の平井啓氏の依頼です。患者を合理的意思決定者としてみなす医療者の想定は、伝統的経済学におけるホモエコノミカス(合理的経済人)の想定を思い起こさせました。ホモエコノミカスとは、高い計算能力をもって全ての情報を用いた合理的意思決定を行う人間のことです。意思決定能力が弱っていることが多い患者を扱う医療の分野で、ホモエコノミカスとして患者が捉えられているという事実は私にとって衝撃でした。そのことを討論で述べたところ、平井氏はそこから行動経済学と医療の研究会を立ち上げることになりました。
行動経済学の考え方を知った医療関係者や患者として意思決定を迫られた人たちから、本を読んで役に立ったという多くの感想を頂いています。行動経済学は、まだまだ発展段階の研究分野です。本プロジェクトで医療現場での実践を通じた研究を進めることで、行動経済学の発展にも貢献できると考えています。

フォーラム「医療現場の行動経済学」