マンスリー・トピックス

いのち、息、風――文化の翻訳をめぐって

社会ソリューションイニシアティブ副長/人間科学研究科教授
栗本英世

2019年1月
「いのち」の翻訳

「いのち」という日本語はなにを意味しているのだろう。世界の様々な言語における「いのち」と翻訳できる語彙は、どの程度意味内容が重なり、ずれているのだろうか。これは、「命」をテーマとするSSIにとって、探究する価値のある問題である。日本語を母語とし、日本語で思考する者にとって、「翻訳」の問題を意識化することは、多文化・多民族・多言語の状況を生きていくうえで重要な課題であると考えられる。こうした関心を深めて広げていけば、世界レベルで「いのち」概念の比較研究を構想することも可能だろう。

この知的に刺激的で、実践的な意味もある問題を考える手始めとして、南スーダンのパリ語を取り上げる。これは、自分が調査研究の対象としている人びとから考えるという、人類学者の常套手段である。パリ(Pari)語はパリ人の母語で、現在の話者は4万人程度である。言語学的な分類上は、ナイル・サハラ大語族のナイル語群、ルオ諸語に属する。

ジュウェイ(jwei)、息、いのち

パリ語で「いのち」に相当するのは、ジュウェイ(jwei)という語彙である。これは息を意味する。人間だけでなく、あらゆる動物にとって、呼吸することは生きていることの証である。呼吸できなくなることは死を意味する。ジュウェイは、古代ギリシア語のプシュケー(psyche)を想起させる。プシュケーも息、あるいはいのちを意味する。「息つまりいのち」という発想は、多くの言語でみられるのかもしれない。ただし、プシュケーは同時に心や魂も意味するが、パリ語のジュウェイにはそうした含意はない。心や魂に相当する別の語彙がある。そもそも、この語彙は、生物学的事実に言及しているだけで、高い価値づけはされていない。したがって、「ジュウェイを大切にしよう」はもちろん、「ジュウェイをまもる、はぐくむ、つなぐ」という表現は、パリ語では意味をなさない。では、ジュウェイに代わって別の語彙を挿入したら、元の日本語の意味になるかというと、そう簡単にはいかない。しいて挙げれば、「生活」を意味するコウ(kou)だが、これだと「いのち」という意味合いに欠ける。

息、風、雨、カミ

では、パリ語には日本語のいのちが表現するような、個人や個体のレベルでの生を超えた、抽象的な意味合いを持つ概念は存在しないのだろうか。これがぴったりというひとつの語彙を指摘することはできない。しかし私は、彼らの言語表現や儀礼的行為など、いくつかの状況証拠に基づいて、パリ人も抽象的ないのちを想像していると考えている。

パリは、災厄を除去する、あるいは福を招来するために動物を供犠する。儀礼的殺害の方法はいくつかあるが、鼻と口、および肛門を手で押さえて窒息死させるという方法がある。この行為の直接的な目的は、犠牲獣の体内の息を外に逃さないことだ。また、王に相当する「雨の首長」は、死の床についたときに、供犠された牛の生皮で顔面を覆われ窒息死させられると伝えられている。これらは生を体現している「息が溢れた身体」が死によって破壊されないための儀礼的手段であると考えられる。

つぎに「風」、ジャモ(jamo)について考えてみよう。息と風がつながっていることは明らかである。風は雨、コス(koth)と結びついている。雨が降る前には風が吹く。そして雨はすべてのいのちの源である。また、風は、カミや霊と翻訳できるジュオク(jwok)に喩えられる。カミと同様、風は遍在する。

さて、私は、長年にわたる付き合いのなかで、パリのある一族のメンバーになり、アジェリ(Ajeri)というパリの名前で知られている。1980年代はじめに、私のオジ、アクメが病気で亡くなった。そのとき、私は現地にいなかった。親族たちは、この死を記憶にとどめる歌を作った。この歌には私が登場し、今日まで歌い継がれている。歌の一節では、「もしアジェリがいたら、アクメを風が吹くロンドンに連れていってくれただろうに」と歌われている。ここでのロンドンは、いわば文明の象徴である。この一節は、もし彼の地の病院に連れていっていたら、アクメは助かっていただろうという意味だ。先に述べたように、パリ語において「風が吹く」は「息をする」ことと関連しており、「風が吹く場所」とは死の恐怖から解放された、理想の場所のことである。「いのちに溢れた場所」の比喩的表現であると言うこともできよう。


・雨雲と雨。パチディ村、2011年。著者撮影。

 


・大地、虹、空。パチディ村、2011年。著者撮影。

いのちの横溢

以上のように、息、風、雨、カミ(神)のあいだに詩的な連想のつながりがあり、「息をする身体」と「風が吹き、雨が降る世界」が、いのちが溢れた状態を比喩的に表現している。人間と動物たちが息をし、体内には息が溢れ、風が吹き、雨が降って、いのちが溢れた状態、これが彼らにとっての理想の状態であると、私はこれまでの経験に基づいて考えている。

では、現代の日本で生きる私たちにとって、いのちが溢れた状態、あるいは枯渇した状態とはいったいなんだろうか、そしてそれを心のなかでどうイメージし、日本語でどう表現するのだろうか。このエッセイは、私たちにこうした問いを提示する。


・3年ぶりの訪問を歓迎してくれた一族の女性たち。彼女たちの多くは、戦争や病気で夫を亡くしている。
ジュバ市郊外、2018年。著者撮影。